福原元僴幽閉之地・児玉源太郎像 長州藩幕末史跡めぐり 周南市編っちゃ!
- 2018/03/04
- 16:54
今年は明治維新150年、 長州藩幕末史跡自転車めぐり っちゃ!

今回は、しゅうニャン市編


五卿登陸碑 文久3年(1863年)八月十八日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた。7名は長州藩兵に付き添われて海路で長州藩の三田尻港(現・山口県防府市)を目指した。途上悪天候のため、3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港(現・山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かった。

五卿登陸碑の隣にある石灯台と周南市の工場群がええ感じっちゃ! 工場夜景が綺麗やろうね ( ´∀`)bグッ!

旧藩学館跡 7代就馴治世に藩校「鳴鳳館」が開設 嘉永5年(1852)鳴鳳の名を廃して「興譲館」と改めた。


益田親施幽閉賜剣之地 禁門の変(蛤御門の変)の責任者としてこの標石の位置からやや東よりにあった惣持院(明治4年廃寺)に幽閉され、元治元年(1864)11月11日夜切腹を命じられました 享年32。


国司親相幽閉賜剣之地 禁門の変(蛤御門の変)の責任者として徳山藩の澄泉寺に幽閉されました。幕府は長州藩に、この変の責任を問い謝罪を求め、益田親施・福原元僴の三家老をそれぞれ支藩の徳山藩に幽閉し自刃を命じました。益田親施の切腹後、同日夜に自刃させられました 享年23。


福原元僴幽閉之地 地元宇部の御殿様で別名福原越後、禁門の変(蛤御門の変)では総大将だった。益田、国司とともに切腹を命じられたが、徳山藩主の子であるため岩国に護送され、11月12日に切腹した 享年50。



児玉源太郎産湯之井戸 日露戦争で、満州軍総参謀長を務めた陸軍大将、児玉源太郎は、嘉永5年2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれた、当時使用していた井戸がそのまま保存されている。また義兄児玉次郎彦が俗論党に暗殺された場所でもある、享年23。

児玉源太郎像 児玉源太郎の顕彰を目的として児玉公園に設置された。 日露戦争で28サンチ砲を駆使し203高地、旅順を攻略して、おそロシアの植民地にされなかったのも児玉さんのおかげです (*- -)(*_ _)ペコリ

児玉神社 児玉源太郎を祀った神社


徳山七士碑 元治元年(1864年)の禁門の変後、徳山藩の政権を保守派が握ったことに伴い、児玉次郎彦と江村彦之進は元治元年8月12日に暗殺、河田佳蔵と井上唯一は捕縛された後の10月24日に処刑され、本城清、浅見安之丞、信田作太夫の三人も同じく捕縛された後、元治2年(1865年)1月14日に処刑された。 七士殉難の後、徳山藩では俗論派の勢力が衰え、やがて殉難七士の家は復興されました。

児玉神社のねこちゃん

以上、しゅうニャン市編でした。
長州藩幕末史跡自転車めぐり 周南市編
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